THE LINE STORY Part 1

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LINEスキー創業物語


第一部

1995年の創業以来、LINEはスキーヤーによるスキーづくりに専念してきた。スキーヤーがもっとスキーを楽しむために。他に方法を知らなかったからだが、このLINE流の考えこそがスキーの進歩を可能にした。20年以上も昔、誰も想像したことないような現在のスキーへと。

これは、LINEを生んだスキーヤーたちの物語である。

1980-1995

80−90年代、アクションスポーツの世界は、爆発的なイノベーションの成果で多くの伝統的スポーツとは比較にならないほど発展した。新しい道具が生まれるたびアスリートのパフォーマンスは上がり、その結果、参加人口が増えて業界は発展する、という好循環の中にあった。

スケートボードはツインチップとシンメトリックの形状になった。ロードバイクをもとにハードな使用に耐えるマウンテンバイクが作られた。ウェイクボードはウォータースキーから進化を遂げた。BMXからはフリースタイル競技が始まった。インラインスケートはローラースケートに取って代わった。そして、スノーボードもこの時代に生まれた。スキーだけが時代にとり残されていた。

アクションスポーツ発展期の人気雑誌と製品

LINE創業者のジェイソン・レビンソールは、アクションスポーツのコアなファンとして、青春時代を当時の熱気の真っただ中で過ごした。次々に革新的な製品と会社が世に出てくる勢いを肌で感じていたが、最も熱中していたスキーだけが、あいかわらず昔からのデザイン(細長いフォルム、尖ったトップ、硬いフレックス)のままでいた。

スキー板だけでなくスキー全体のイメージも、若々しく反逆的で日進月歩のスノーボードと比べて、完全に時代遅れになっていた。

当時の典型的なフリーライドスキー(緑のロシニョールはジェイソン愛用のスキー)

スノーボードを選ぶ若いユーザーを惹きつけらなかった当時の写真や広告

スノーボード人気が高まるにつれ、スキー場は「スノーボードパーク」をつくるようになる。ジャンプ台を飛んだり、レールを擦ったり、パイプを滑れるのは文字通りスノーボーダーだけ。スキーヤーは入場すら許されなかった。

今では信じられないが、パークの入口に「スキーヤーお断り」の看板が立っていたのである。「スキー」業界はスキーの可能性やスノーボードの将来性を完全に見誤っていた。

どっちを選ぶ?

1995年、ニューヨーク州バッファロー大学でプロダクト&グラフィックデザインを専攻していた21歳のジェイソンはある日、突飛なことを思いつく。当時愛用していたスラロームスキー(長さ203cm/幅65mm/ノーサイドカット/フラットテール)の不満を解消するアイディアである。

スラロームスキーはスプレッドイーグルをするには申し分なかったが、思い描く理想の滑りには程遠いデザインに感じられた。そこで、スノーボードを元にしたデザインを取り入れてみた。

ジェイソンが初めて描いたツインチップスキーの設計図

大学の木工教室に通い、製作にとりかかった。思い描くスキーは、チップと同じ高さで反り上がったテール。中央の位置に取り付けられビンディング。しなやかなフレックス。深いサイドカットをもつ左右対称の形。長さと幅はスノーボードを半分に割ったような形とした。

大学のプロジェクトから始まったアイディが実り、95年の春にプロトタイプが完成する。ジェイソンは仲間を誘ってニューヨーク州バッファローのホリデーバレー・スキー場に出かけ、出来立てのツインチップスキーを肩に担いでハイクアップした。

気がつくと昼食の頃には、ピクニックテーブルの上をスライドしたり、後ろ向きで滑れるようになっていた。他にも、これまでスキーでは不可能に思われたことが、たった1日でできてしまった。

コールマンのキャンプ用ストーブで沸かした湯は銅製のパイプを通って汲み上げられ、エポキシ樹脂を温めて溶かした。加圧はカージャッキを流用。

初めてプレスされたスキー。素材は寄せ集め。古いスキーから剥がしたエッジ。板材から切り出したウッドコア。ボート補修剤のエポキシ樹脂とファイバーグラス。Function(地元スノーボードメーカー)から調達したプラスチック材。

この結果に気を良くしたジェイソンは、商品化を目指す。卒業後は実家に戻り、これまでにない形態のスキーカンパニーのLINEを立ち上げた。そのブランド名は滑走ライン、コブのライン、あるいは単純にスキーの痕跡に由来する。

その夏、休む間もなく毎日16時間、スキー生産に必要な器具を試行錯誤しながらつくる日々が続いた。

ニューヨーク州アルバニーのエイブルマン通りに建つレビンソール家の自動車倉庫。ここからLINEは始まった。

上:鉄クズから組み上げられたジェイソン手製のスキープレス機 下:ガレージが手狭になり、器具が置かれた半地下室に立つジェイソン

1995-96

冬に入る頃には1日8時間で1ペアを製造できるまでになる。一人でも立派なスキーファクトリーへと成長した。日帰りでマサチューセッツ州のジミニーピークやバーモント州のストラットンなど小さなスキー場にスキーテストに出かけては改良のためにガレージに戻ることが、ジェイソンの新たな日課となる。

寝ても覚めても、新しいスキー開発にジェイソンは時間を費やした。朝起きるとスキー場に上がる。試乗からフィードバックを得る。夕方ガレージでどこかをいじる。翌朝、プレス機から取り出しばかりのスキーで再びテストにのぞむ。新しいフィードバックを得る。再び改良。この過程を毎日繰り返す。考えうる最良のスキーデザインにたどり着くために。

上:ミスティ5をきめるマイク・ニック。場所はジェイピーク近くのロードサイド。マイクがブレイクする前のこと。下:ストラットンの「スノーボード」パークに侵入するジェイソン。パトロールに捕まったらリフト券没収だが、、、それだけの価値があった!

そうこうして20本ほどのスキー板が友人と家族(情けない!)に売れるまでになった。商品化のめどがたち、LINEはラスベガスで開かれた全米スキー業界で最大の展示会SIAスノーショウへ出展する。全米や世界中からスキーメーカーとスキーショップが一同に集まり、来シーズンの新製品を売り込んだり、買い付けをする場所である。

会場には数千人のショップ関係者が訪れる一方、ほんのわずかの者がLINEの三メートル四方の小さなブースに立ち寄るだけだった。注文数はゼロ。かろうじてTシャツ数枚が売れただけ…スキー開発に専念する時だった。

1996年SIA展示会のLINEブース。LINEのビンディングを開発したCatek社のジェフ・カーロン(左)。足元のフレックスを最大限に活かす機構とスノーボードのインサート式のマウントを採用した。

ジェイソンの実家の寝室。ここからショップに取引きの電話をかけ、ビジネスを軌道に乗せようと奮闘した。床に転がるライケルのスキーブーツは10年後、「フルティルト」ブランドとしてジェイソンの手腕によって復活する。

スキー製作の資金調達のためにジェイソンが製作した数々のデッキのひとつ。

2週間後、ジェイソンは近所の文房具屋からLINE宛のファックス受信の連絡をもらう。日本からの注文書だった。数量は1,000本。LINEがこれまで製作した本数は、この時点で、たったの30本。解決策よりも問題の方が山積みだった。しかし、ジェイソンはすぐさまこう考えた。スタートアップにとってこれ以上ない最高の課題だと。

1996-97

まず両親のガレージを出て、広さ140㎡の倉庫(それまでより少し広い程度)を借りた。次に友人や家族、その他誰でも構わず雇った。夏のむし暑い倉庫の中、エポキシ樹脂やファイバーグラスと格闘することを厭わない者ならば。

工場の従業員として雇った高校の同級生とジェイソン

実家のガレージに置かれた機械を積み終えたジェイソン

1日の製造量は15本。無事に1,000本を日本に発送し終えると、夏はとっくに終わっていた。

好物のピーナッツバターとゼリーのサンドイッチで作業の休憩をとるジェイソン。新しいガレージにて

プレス機を調整するジェイソン

スキーを切断する日々が続く。

1997年冬。製品の改良は続いていたが、アメリカ本国ではヒットする兆候はまるでなかった。その年の春、LINEはSIAの展示会に再び参加する。驚くことに、サロモンや他メーカーがLINEそっくりのスキーを出展していた。

サロモンの強力なマーケティング力のおかげで、この新しいタイプのスキーはすぐに展示会の注目の的になる。輝かしい未来への小さなステップだが、過去20年間停滞していた業界に一筋の光を照らし、ショップ関係者やスキーヤーを興奮させたこの製品は「スキーボード」と呼ばれることになる。残念なことに、当時はこれより適切なネーミングがなかった。

特別号で新しいスポーツの市場を特集した1998年のウィンタースポーツビジネス誌

フルレングスのツインチップはまだ登場していない当時の各社の「スキーボード」

この時、LINEはチップとテールの高さが同じ”リアル”ツインチップスキーをつくる唯一のメーカーであった。オリジナルなコンセプトゆえ、ツインチップスキーのデザイン特許を取得する。しかしながら特許の行使は、LINEのゴールではなかった。

新しいスキーの未来をつくるためには、ツインチップスキーをつくる門戸をすべての人に開放すること。そう信じたからである。

当時お約束の質問。「なぜ後向きで滑るんだ?」

1997-98

この年、Xゲームはスキーでは初めてのスロープスタイルのイベントを開催した。その種目はスキーボード・スロープスタイルと名付けられる。今では笑えるネーミングだが、当時はアルペン競技に人気があり、レース用の長い板ではバックストレッチャーなど古いトリックが精一杯だった。

それに対して、スキーボードに乗ったマイク・ニック(ジェイソンの高校時代の友人)はスイッチ・コーク900やミスティ7、レールグライドといった通常のスキーでは不可能と思われていたトリックを繰り出していた。

ほどなくLINEはニュースクールスキーのオリジナル、本物、ライダー主導、ハイパフォーマンス、パイオニアとして、その名を高めることになった。

540をきめて銅メダルを獲得したジェイソン。900を回して金メダルに輝いたマイクはその後、アパレル会社オラージュの経営に参加する。

突如としてLINEは時代の旗手となり、スキーは売れ始めた。広さ220㎡のより大きな工場(それでもまだガレージと呼ぶような代物)に移り、ジェイソンは家族と仲間を再び呼び集め、スキーづくりのため夏の間働くように説きふせた。

ブレイクスルーにはまだ遠いが、もし製品とトリックの進歩が前進すれば新しいスキーの未来がくる。多くの人がそう感じはじめていた。

1日40ペア以上、ひと夏で5,000ペアを生産したニューヨーク州アルバニーのファクトリー

裏庭にハーフパイプがあってスキーファクトリーはホンモノとなる

大手マガジンNewsweekの誌面を飾ったジェイソン。小さなスキーが大きなニュースになった!

1998-99

売上の拡大という大きな弾みをえたLINEは、新しいスキーへのビジョンをもって開発を続けた。98/99シーズンにはクリス・オストネス(当時最も革新的なスキーヤーのひとり)を開発チームに迎える。スキーボードから193cmのリアルツインチップ「オストネス・ドラゴン」(翌年の辰年にちなんでこの名前がつけられた)の完成に向かって。

1999年夏、Camp Of Champions(COC)でテストをするクリス。COCはスキーヤーにパークの門戸を開いた最初のサマースキーキャンプ。ケン・アキンバックの功績である。クリスはマックツイストを最初にきめたスキーヤーでもある。スキートリック開発のパイオニア、そしてLINEの看板スキーヤーとして活躍した。

オストネス・ドラゴンはクリスのプロモデルとして発売され、翌年POWDERのフォトアニュアルのカバーショットに選ばれる。スキー業界に衝撃が走った。ツインチップスキーがスキー雑誌の表紙を初めて飾ったからである。

LINEはフリースキーのカテゴリーで真のパイオニアとしての地位を固めるまでになった。

ジェイソンとマイクは行動(言葉より大きな武器)することで、スキーの未来を信じつづけた。革新的なスキー。もっと楽しく滑れるスキー。イノベーティブな製品をつくりつづけた。

さらに冬と夏にスキーキャンプをひらき、パークスキーの技術を教え、二人の考えを広めた。

左:FREEZE1998年12月号に掲載されたジェイソンの写真。レールを滑るスキーヤーが初めて商業誌に載った歴史的な1ページである。
右:数々の大会の賞を席巻したマイク・ニック

Lineは無名だが才能とビジョンがあるスキーヤーをチームに迎え入れつづけた。スコーゲン・スプラングもそのひとりである。一時転向したスノーボードから学んだプログレッシブなレールスライドをスキーに取り入れていた。驚くほどなめらかなスタイルの持ち主で、回転軸をずらしたトリックを初めて披露したスキーヤーである。

この年、スキーはXゲームに仲間入りし、スコーゲンは表彰台に上がった。さらにスコーゲンは2000年シーズン、出場した全てのビッグエアの大会で勝利する。

スコーゲンは当時誰も真似できなかったスウィッチ・ロデオのパイオニアであり、「スコーデオ」と呼ばれたロデオとフラットスピンのコンビネーションを完成させた。

現役引退後は合衆国のフリースキーオリンピックチームのコーチに就任し、2014年には全米オリンピック委員会が選出するコーチ・オブ・ザ・イヤーを受賞した。

今では語り草となったスコーゲン・スプラングの唯一無二のスタイル

1999年夏、Camp of Championsで宙を舞うスコーデオ

TO BE CONTINUED...



2000年代へ続く…